ハンガーの記憶(短編小説)

尼崎の狭い一軒家で、私の幼少期は始まった。父母と弟と、肩を寄せ合うように暮らしていた。今でも、あの家の間取りはぼんやりと頭に浮かぶ。正確かどうかは分からないけれど。
母は奄美大島から、姉妹で集団就職という形でこの内地へやってきたと聞いた。母の作るコロッケは絶品で、私はいつもせがんで作ってもらっていた。あの優しい笑顔と、揚げ物の香ばしい匂いは、今でも鮮明に思い出せる。
しかし、父、以下Aと呼ぶことにするが、酒を飲むと人が変わったように暴れた。木製のハンガーやフライパンが、母を容赦なく打ち付ける音が、幼い私の耳にはっきりと焼き付いている。今思えば、あれは間違いなくDVだったのだろう。私は布団の中で、隣で眠る弟が目を覚まさないように、息を潜めて震えていた。
ある日、三輪車で遊んでいた私の目に、母が見慣れない硬貨をちらつかせた。「後で、オルゴールを買いに行こうね」と優しい声で言った。かねてから私が欲しがっていたものだったのだろうか。その時の嬉しそうな母の顔は、今でも忘れられない。
だが、その日の午後、母は二度と帰ってこなかった。白い布団に横たわる母を、医者は診察したのだろうか。頭に傷があったかどうかは分からない。心不全だったか、それとも別の原因だったのか、自然死のような診断が下されたと記憶しているが、定かではない。
母の葬儀の日、私は家の近くの小さな川に架かる橋のたもとで、長い時間、ある人たちを待っていた。それは、私が名古屋のおばさんと呼んでいた母の姉夫婦だった。葬儀を終え、帰ろうとするおばさんの手を、私は必死に掴んで泣き叫んだ。「僕も連れてって!」あの酒癖の悪いAとこれから一緒に暮らすなんて、幼い私には想像もできない恐怖だった。弟のことは、その時の私には考えられなかった。
あまりにも私の泣き叫ぶ声が大きかったのだろう。名古屋のおばさん夫婦は、「すぐに返すから」とか何とか言って、Aを説き伏せたようだった。
こうして、私は名古屋ではなく、岡崎の地を踏んだ。「すぐに返す」という言葉は、一年が過ぎ、二年が過ぎても果たされることはなかった。私は岡崎のめぐみ幼稚園に通うようになっていた。いつの間にか、名古屋のおばさん夫婦は、私にとっての「お父さんとお母さん」になっていた。
当時、幼稚園から岡崎工業高校(現在の工科高)まで、私はバスで通園していた。ある日の帰り道、バスの最後列のシートに、コートで顔を隠すようにしていた恐怖のAを見つけたのだ。当時のバスには車掌が乗っていて、私は必死に「早く降ろして」と訴えたが、「もうすぐ着くよ」とあっさり言われてしまった。近所に住む幼馴染の女の子といつも一緒にバスに乗っていたのだが、その日はバスを降りると、私は一目散に走り出した。しかし、大人の足には敵うはずもなく、すぐに追いつかれてしまった。泣き叫ぶ私に、Aは「今から名古屋のおばさんに会いに行くから、一緒に行こう」と優しく諭した。それなら、と私は一緒に歩き出したのだが、家の前まで来ると、突然私を抱きかかえて走り出そうとした。
その時、幼馴染からの連絡を受けた母が、外に飛び出してきた。母は私の両手をそれぞれ掴み、Aから引き離そうとした。騒ぎを聞きつけた隣の人が出てきて、私たちの間に割って入ってくれた。「行け!」というその人の言葉に、母は私の手を引いて、近くの山の中へ逃げ込んだ。子供の頃、私は山の中でターザンごっこのような遊びをして育ったので、山のことは誰よりも詳しかった。私たちは山の中を駆け抜け、知り合いの家に身を隠した。
そのことがあってからは、平穏な日々が戻ってきた。しかし、保険証のない私の病気の治療費は、全て実費だった。養父母は、色々と大変だったと思う。
昭和48年2月19日。家庭裁判所は、高校生になった私の意思を尊重し、養子縁組が成立した。私は晴れて、名古屋のおばさん夫婦の、かけがえのない子供となったのだ。
そんな経緯があったからだろうか、私の結婚は大変だった。息子を、見知らぬ女に奪われると思ったのだろうか、養母はそれはそれは激しく抵抗した。結婚生活は、決して平穏なものではなかった。妻の智子には、本当に苦労をかけたと思う。養母は、何かにつけて「父がそう言っているから」と言うのだ。ある時、その言葉を真に受けた私は、「何でそんなことを言うんだ!」と養父の胸倉を掴んでしまったこともあったが、それも誤解だった。
忘れられないのは、皆で夕飯を食べようとした時のことだ。養母は突然立ち上がり、自分だけ別の食事を用意し始めたのだ。それには、本当に驚いた。そこまでしなくても、と感じた。
しかし、養母は早くに亡くなった。昭和59年、58歳という若さだった。私が結婚したのは昭和57年だったので、智子には2年ほど、辛い思いをさせてしまった。
長男が幼稚園の頃だったと思う。実の弟から、突然、実母の何回忌かの知らせが届いた。「どうしても尼崎に来て欲しい」というのだ。私は悩んだ末に、長男を連れて尼崎へ向かった。弟が、母のこと、私のことをどう聞かされているのかは分からなかった。恐らく、自分を置いて一人で逃げた、最悪の兄だと思っていたのだろう。恨み言こそなかったが、彼の言動の端々に、そう感じさせるものがあった。Aとも、差し障りのない会話を交わしたような気がする。それまで、実母の法事には養父が行っていたのに、なぜその時、私だったのかは今も分からない。
そんなAも他界し、弟の代理人から、相続に関してどうするかという書面が届いた。私は迷うことなく、「すべて放棄します」と返信した。
そして昭和26年、養父も他界した。結果として、私は二組の両親を失ったことになる。ハンガーの記憶は、今も私の心の奥底に、深く刻まれている。
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